第三章 砂紋の機微(仲秋)~随処作主~

寺には、老師が大切にしている「枯山水」の庭があった。白砂と大小の石だけで構成されたその庭は、水を一切使わずに大河や海を表現する、禅の精神そのもののような場所だった。毎朝、その白砂に熊手で砂紋を描くのは、兄弟子である雲水の役目と決まっていた。

ある日、その兄弟子が鎌倉の大寺へ使いに出ることになった。往復で一月(ひとつき)はかかる長旅だ。

「庭の守りはどうしましょう」と問う兄弟子に、老師は事もなげに言った。「朴念にやらせておけ」

雲水たちは驚いたが、老師の言葉は絶対である。こうして朴念は、一月の間、作庭(さくてい)の真似事を任されることになった。

最初の数日、朴念は兄弟子が教えてくれた通りに熊手を動かした。石の周りをぐるりと囲み、残りは真っ直ぐに引く。教えられた通りの「型」だ。だが、五日目の朝。庭に立った朴念は、熊手を持つ手を止めた。

秋が深まり、太陽の位置が低くなっていた。庭の隅にある松の影が、以前よりも長く白砂の上に伸びている。

(影が、伸びている……)

兄弟子の描く波は、いつも同じ幅、同じ流れだった。だが、水面(みなも)に落ちる影が変われば、水の表情も変わるはずではないか? 影が濃くなれば、水は深く淀む。光が強ければ、水は跳ねる。「水」を描くのに、季節を無視していいのだろうか。

朴念は迷った末に、教えられた型を崩した。長く伸びた松の影の下、砂紋の幅を少し広げ、うねりを加えた。影の重みに合わせて、水がゆったりと流れるように。それは、誰に教わったわけでもない、朴念の目が捉えた「今の庭」の姿だった。

作業を終え、額の汗を拭っていると、背後に気配を感じた。振り返ると、老師が立っていた。鋭い眼光が、いつもとは違う砂紋を見下ろしている。

(怒られる……!) 朴念は身を縮めた。

「おい、朴念。なぜ変えた」 老師の声は低かった。

朴念は頭を掻き、照れくさそうに、しかし正直に答えた。「あー……その、季節によって、石や木の影の長さが違いますゆえ」 朴念は松の影を指さした。

「影が伸びれば、そこの水も重くなる気がしまして……いつもの波だと、どうも窮屈に見えたものですから。つい、余計なことをしました」

弁解しながら、やはり余計なことだったかと項垂れる。沈黙が流れた。やがて、頭上から「カッカッカ」と乾いた高笑いが降ってきた。

「好きにしろ。……悪くない」 老師はそれだけ言うと、満足げに踵を返して去っていった。朴念は呆気にとられ、その後ろ姿を見送った。

それから半月ほどが過ぎ、鎌倉から兄弟子が帰ってきた。旅装を解くのももどかしく、兄弟子は真っ先に庭へと向かった。そして、足を止めた。そこには、自分が描いていたものとは似て非なる、生きた「水」があった。松の影、岩の配置、光の加減。それら全てを飲み込み、砂紋が呼吸をしているように見えた。

「……負けた」 兄弟子は独りごちた。自分にとって、この砂紋描きは「朝の雑務」の一つに過ぎなかった。曲がらぬように、均一に、早く終わらせることだけを考えていた。だが朴念は違った。あいつは砂を掃いていたのではない。世界を描いていたのだ。

その夜、兄弟子は老師の部屋を訪ね、頭を下げた。

「老師、お願いがございます。庭の砂紋描き、今後も朴念に任せてやっては頂けませぬか」

「ほう、なぜだ。お前の役目であろう」

「恥ずかしながら、私はただ『作業』をしておりました。ですが朴念は、庭と『対話』をしております。あの庭も、朴念の手を喜んでいるように見えますゆえ」

翌朝、朴念は老師に呼び出された。「朴念。今日から庭はお前の担当だ」

「えっ? ですが、兄弟子が帰ってこられたのでは……」

「あやつが、お前の方が上手いと泣きついてきおったわ」 老師はニヤリと笑った。「もちろん、今の仕事が減るわけではないぞ。水汲みも掃除も今まで通りこなした上で、庭を掃け。よいな」

「……はい!」 朴念の返事は、弾んでいた。

仕事が増える? そんなことはどうでもよかった。型にはめられ、ただ言われるがままに動くだけの毎日の中で、唯一許された「自由」。砂と熊手だけで、自分の感じる「理(ことわり)」を表現できる時間。それは、かつて絵筆を奪われ、色が消えた朴念の日常に、鮮やかな「創作の喜び」が戻ってきた瞬間だった。

型に囚われず、その時その場の主(あるじ)となって振る舞うこと。砂紋を描くという役目の中で、朴念は知らず知らずのうちに、その境地の一端に触れていたのだった。それが「随処作主(ずいしょにしゅとなる)」という禅の極意であることを知るのは、ずっと先の事だった。