第六章 無言の汗(厳冬)~無功徳~

雪がちらつく厳冬の頃、寺の屋根の吹き替え工事が決まった。莫大な費用がかかる事業だが、噂を聞きつけた都の大商人がやってきて、ポンと大金を寄進した。商人はふんぞり返り、老師に言った。

「老師、これだけの金を出したのです。さぞかし大きな功徳(ご利益)がありましょうな。私の名は末代まで極楽へ残りますかな?」 商人は見返りを求めていた。金で仏の慈悲を買い、あわよくば老師の墨付きを得て商売に利用しようという腹だ。

老師は寄進の目録を一瞥すると、涼しい顔で言った。

「ありがたい。これで不足分が賄えるだろう」

「で、功徳の方は?」 商人が身を乗り出すと、老師は鋭い眼光を向けた。

「……商人(あきんど)よ。『禅』とは己に問う事じゃ。そなたの問いには、そなた自身が答えを求めるしかない」

「は、はあ……?」

「もし答えが出ぬなら、今宵はここで朝まで『臨済録(りんざいろく)』でも紐解き、共に語り明かしても構わぬぞ。とことん突き詰めてみようではないか」

老師が分厚い経典に手を伸ばすと、商人はギョッとして顔を引きつらせた。(冗談じゃない、こんな黴臭い寺で説教などごめんだ)

「い、いえ! 商いがございますゆえ、私はこれで!」 商人は恐縮したふりで頭を下げ、逃げるように席を立った。その背中に、老師の声が追い打ちをかけた。

「寺には足らぬものばかりじゃ。寄進するのが功徳と悟られたなら、より一層功徳に励んでいただければ、ありがたいぞ!」

「ひぇっ……!」 商人は転がるようにして帰っていった。

その夜、底冷えのする便所で、朴念は床を磨いていた。誰が見ているわけでもない。誰に褒められるわけでもない。ただ、明日ここを使う老師や雲水が、少しでも気持ちよく用を足せるように。

氷のような水に雑巾を浸し、あかぎれの指で絞り、一心不乱に床を拭う。便所の臭気も、冷たさも、今の朴念には苦ではなかった。むしろ、無心に手を動かすこの静寂が心地よかった。

「……精が出るな」 ふと、背後から声がした。老師が立っていた。朴念が慌てて頭を下げると、老師は昼間の商人が座っていた方向を一瞥して言った。

「見返りを求めて積んだ金よりも、誰にも知られず流すその汗の方が、仏の道には近いのやもしれんな」

功徳などない。見返りなどない。ただ無心に行う善行こそが、泥中の蓮のように真の輝きを放つ。便所の片隅で、朴念は商人の金よりも尊い「清浄」を知った。後に朴念はそれを「無功徳(むくどく)」という言葉で噛み締めることになる。

朴念が雑巾を絞り直していると、去り際の老師が吐き捨てるように言った。

「今度、あやつが来た時には、お前の爪の垢でも煎じて飲ませてやれ」 そして、「カッカッカ」と愉快そうに高笑いしながら、闇の廊下へと消えていった。

朴念はポカンとした後、自分の汚れた手を見つめ、思わず吹き出した。その笑い声は、冬の夜の冷気を温かく溶かしていくようだった。