第七章 闇を歩く灯(春霞)~法灯明・自灯明~

長い冬が終わり、山々が淡い緑に包まれ始めた春のこと。朴念は、寺から遠く離れた山間の集落へ使いに出された。

帰り道のことだ。春特有の気まぐれな天候が牙を剥いた。谷底から湧き上がった濃霧が、瞬く間に山を飲み込んだのだ。

日は落ち、「春霞(はるがすみ)」という風流な言葉では済まされぬ、乳白色の闇に辺りは閉ざされた。頼みの綱であった手提げ提灯の蝋燭も、無情な突風に吹き消されてしまった。

「誰か! 誰かいませんか!」 朴念は叫んだ。だが、返ってくるのは自分の声の木霊(こだま)と、得体の知れぬ獣の気配だけ。

今日は満月の筈だった。空には皓々(こうこう)たる月があるはずなのに、厚い霧に阻まれ、光は一筋も届かない。

天地の境もわからぬ漆黒の孤独。世界から自分だけが切り離されたような絶望感が、朴念の足をすくませた。

足元は崖かもしれない。一歩進めば、奈落へ落ちるかもしれない。恐怖が全身を駆け巡り、朴念はその場にうずくまって震えた。

(怖い……動けない……)

疑心暗鬼が心を蝕(むしば)む。このままここで、誰にも知られず朽ち果てるのか。救いを求めても、闇は深まるばかり。誰も来ない。誰も助けてはくれない。

いつまでそうしていただろうか。冷たい夜露が頬を濡らした時、極限の恐怖の底で、朴念の中に何かが生まれた。それは、冷たく、静かな「覚悟」だった。

(……待っていても、夜は明けない)

道が塞がれていようと、闇が深かろうと、進まなければ寺には着かない。朴念は、震える膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。

目を閉じる。闇の中で目を見開いても、不安が増すだけだ。信じるべきは、己の感覚と、この空の上に変わらずあるはずの月だけだ。風の音を聞く。沢の流れる音が左下から聞こえる。ならば寺へ続く尾根は右だ。足の裏で土を感じる。湿った苔は滑る。乾いた岩を探せ。

一歩。足を出すのが怖い。地面がないかもしれないという想像が、心臓を鷲掴みにする。だが、踏みしめた足裏には、確かな大地の感触があった。

(……ある。道はある)

また一歩。まだ怖い。不安は消えない。それでも、朴念は心の中で呪文のように繰り返した。「一歩進めば、一歩近づく」 恐怖を勇気で塗りつぶし、また一歩。

「一歩進めば、一歩近づく」 その一歩の積み重ねだけが、今の自分を支える全てだった。

どれほどの時間を歩いただろうか。永遠にも思える闇の行軍。だが、その瞬間は唐突に訪れた。

ふわりと頬を撫でる風の温度が変わった。次の瞬間、目の前を覆っていた白い壁が、サーッと音もなく引いていった。

「あ……」

朴念は目を見開いた。頭上には嘘のように澄み渡った夜空があり、満月が煌々と輝いている。その青白い光に照らし出され、目の前には見慣れた山門のシルエットが浮かび上がっていた。そして眼下には、遠く集落の家々の灯りが、星を散りばめたように瞬いている。

圧倒的な開放感。世界は、こんなにも広かったのか。月はずっとそこにあったのだ。霧に隠れて見えなかっただけで、光は常に自分を照らしていたのだ。

朴念はその場にへたり込んだ。安堵で涙が溢れて止まらなかった。

道が霧で閉ざされようと、闇で塞がれようと、霧はいずれ晴れ、月は必ず道を照らす。それがこの世の理(ことわり)だ。その理を信じ、そして何より、その道を歩む「己自身」を信じること。他者にすがらず、己自身を闇夜の灯火(ともしび)として進む強さ。

その夜、朴念が得たものは、単なる生還の喜びではなかった。

後に彼は、この時の確信を「法灯明(ほうとうみょう)・自灯明(じとうみょう)」という言葉で知ることになる。法(真理)を灯とし、自(おのれ)を灯とせよ。満月の下、朴念の影は、以前よりも濃く、力強く大地に伸びていた。