梅雨の季節がやってきた。都の盆地特有の、まとわりつくような湿気が寺を包み込む。雨は三日三晩、止むことなく降り続いていた。洗濯物は乾かず、堂内の床は湿気でベタつく。朴念は眉間に深い皺を刻みながら、ドスドスと音を立てて廊下を歩いていた。何をするにも面白くない。胸の奥に鉛を飲み込んだような重苦しさがあり、つい舌打ちが出そうになる。
「朴念。茶を持ってまいれ」 奥の部屋から老師の声がした。「……はい」 朴念は渋々返事をし、茶を淹れて盆に載せた。
老師は、枯山水の庭に面した縁側に座っていた。いつもなら白砂が広がる美しい庭も、今は激しい雨に打たれ、至る所に水たまりができている。砂紋は崩れ、無惨な泥の海のようだ。(ああ、汚い。見るに堪えない)
朴念は顔をしかめながら、老師の横に盆を置いた。「老師、お茶をお持ちしました」
老師は茶碗を手に取り、一口すすると、満足げに息を吐いた。そして、雨に煙る庭を愛おしそうに眺めて言った。「ふうむ……今日は好(よ)い日だな」
「は?」 朴念は思わず素っ頓狂な声を上げた。耳を疑った。老師はボケてしまったのだろうか。
「老師、何を仰るのですか。この長雨で洗濯物は乾かず、あちこち雨漏りはするし、庭はこの有様です。どこが『好い日』なのですか」 朴念が食って掛かると、老師は茶碗を置かずに穏やかに返した。
「そうか? わしには、雨に濡れた木々の緑がいっそう鮮やかに見えるがな。それに見てみろ、あの岩。雨に打たれて黒く輝き、いつもより堂々としておるではないか」
朴念は庭を見た。確かに、言われてみれば岩は濡れて艶を帯び、苔の緑は生き生きとしている。だが、朴念の心は晴れなかった。「……それは、そうかもしれませんが」 口を尖らせる朴念を、老師は横目でじろりと見た。その眼光には、すべてを見透かすような悪戯な光が宿っていた。
「朴念。さてはおぬし……雨で『砂かき』ができぬから、機嫌を損ねているのではないか?」
ドキリとした。図星だった。兄弟子に押され庭の手入れを任されて以来、朴念にとって朝の砂紋描きは楽しみであり、己を表現できる神聖な時間でもあった。「明日はどんな波を描こうか」と毎晩考え、朝を待ちわびる。だが、この雨で三日間、熊手を握れていない。自分の「作品」を作れないもどかしさ。崩れた砂紋を見る辛さ。
(ああ、そうか……俺はただ、絵を描けない子供のように拗ねていただけだったのか) 自分の不満の正体を知り、朴念は顔を赤くして俯いた。
老師は庭へ視線を戻し、静かに言った。
「晴れの日には晴れを愛で、雨の日には雨の降る様を愛でる。自分の都合で良い悪いを決めるな。晴れも雨も、二度とは来ない、その一瞬だけの『好(よ)き日』なのだよ」
朴念は顔を上げ、再び庭を見た。先ほどまでは「邪魔な音」でしかなかった雨音が、今は天と地が奏でる壮大な音楽のように聞こえた。描けなくとも、庭はそこにある。雨もまた、庭の一部として景色を描いているのだ。自分が描くまでもない。世界は最初から、こんなにも美しく描かれている。
「……はい。良い雨音でございますね、老師」
朴念が憑き物の落ちたような顔で言うと、老師は笑いながら「茶が冷めるな」と言いながら湯飲みを口元に運んだ。濡れた縁側を吹き抜ける風が、湿気を帯びていても心地よく感じられた。
後に朴念は、この時の教えを「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」という言葉で知ることになる。
