第十章 絵筆と法衣(三度目の秋)

日々の労働と季節の流転の中で、様々な「気付き」を得た朴念は、三度目の秋を迎えた。寺の庭は、朴念が初めてここに来た時と同じように、燃えるような紅葉に包まれている。だが、そこを歩く朴念の背筋は、かつてのように丸まってはいなかった。

その傍らには、まだ十にも満たない小柄な少年が、朴念の真似をして大きな竹箒を引きずっている。

「千太(せんた)、腰が入っておらんぞ。こうやるんだ」

「はいっ! 朴念様!」

少年の名は千太。あの日、朴念が荷を背負ってやった老婆の孫である。

度々老婆の家を訪れ、弟のように世話を焼く朴念を信頼した老婆の家族が、口減らしも兼ねてこの寺へ預けた。かつて孤独だった朴念にとって、千太は初めてできた「守るべき存在」だ。

その日の夕刻、朴念は老師の部屋に呼ばれた。部屋に入ると、老師の前には二つの包みが置かれていた。

「朴念、お前がここに来て丸二年が過ぎたな」

「はい。長かったようでもあり、瞬きの間のようでもございました」

老師は小さく頷くと、一つ目の包みを解いた。そこにあったのは、真新しい筆と、上質な墨だった。

「……老師?」

「お前がかつて捨てたものだ」老師は筆を手に取り、切っ先を朴念に向けた。

「この二年の間、お前は泥にまみれ、闇を歩き、人の重荷を背負った。今のその目で、その心で、この筆に魂を込め、迷える者を導く絵が描けるか?」

部屋に静寂が満ちた。

朴念は筆を見つめた。喉から手が出るほど欲しかった筆だ。今の自分なら、以前よりはずっと良い絵が描けるだろう。枯山水で見せたように、理(ことわり)を捉えることもできるかもしれない。

だが、今の朴念には分かっていた。自分の中にはまだ、描ききれぬ未熟さが広がっていることを。朴念は静かに首を振った。

「いいえ……今の私では、未だ満足のいく絵は描けないでしょう。描いたとしても、それはただの形に過ぎませぬ」

その答えを聞いた老師の目元が、ほんの僅かに緩んだように見えた。

「そうか。ならば、これに袖を通せ」老師は筆を置き、もう一つの包みを朴念の前に押しやった。

包みを開けた朴念の手が震えた。そこに入っていたのは、これまで着ていた継ぎ接ぎだらけのボロではない。藍色が美しい、しっかりとした木綿の作務衣。一番下っ端とはいえ、正式な修行僧が身につける墨染(すみぞめ)の法衣(ほうえ)だった。

「……老師、これは」

「着替えろ。明日からはそれがお前の皮だ。下男(げなん)の朴念は今日で死んだ。明日からは、修行僧の朴念として生きよ」

朴念は法衣を抱きしめ、溢れる涙を止めることができなかった。

都を追われ、橋の下で死にかけていた直介。名を奪われ、只々働き続けた朴念。その全てが報われ、今、新たな道が拓かれたのだ。

咽び泣く朴念に、老師は先ほどの筆を放り投げた。

「だがな、朴念。絵筆を持つのは日に一刻(いっこく)までだ」

朴念が顔を上げると、老師はいつもの不愛想な顔をわざと崩し、珍しくニヤリと笑ってみせた。

「満足いく絵が描けぬと言うなら、猶更(なおさら)精進することだ。千太の面倒も見てやらねばならんしな」

それは、いつも憎まれ口ばかり叩く老師が見せた、精一杯の親愛の情だった。

「……はいっ! ありがとうございます、老師様!」

朴念は涙を拭い、筆と法衣を胸に抱きしめた。窓の外では、秋風が舞い、枯葉が空へと旅立っていく。その流転の景色は、朴念の門出を祝うように輝いていた。

(第一部 完)