三河国、今川の里での日々は、穏やかに過ぎていった。一行は名主・只野頼吉の縁者の館に逗留(とうりゅう)し、旅の疲れを癒していた。
そんな中、里の子供たちの間で、ある「英雄」が誕生していた。千太である。
「なあ、千太様! 都の話を聞かせてくれよ!」
「おうよ、任しとけ!」鼻水を垂らした子供たちに囲まれ、千太は胸を反らせて仁王立ちになっていた。
「俺たちが通ってきた山道にゃあ、熊よりもデカい山賊が出たんだがな、俺がこう、睨みを利かせると、奴ら尻尾を巻いて逃げていきやがったのさ!」
「すげえ! 千太様は強いんだな!」
東奔西走の活躍をした古(いにしえ)の英傑・尊氏公か、はたまた伝説の俵藤太か。普段、藤太や藤次にからかわれ、失敗ばかりして頭を掻いている千太が、子供たちの前では別人のように凛々しく立ち居振る舞っている。
「……よくやるよ」その様子を遠巻きに眺めながら、藤太が呆れ顔で呟いた。だが、その滑稽な姿もまた、男手を失い寂寥とした里に久しぶりに響く、明るい笑い声の源となっていた。
一方、朴念は一人、静かに思索に耽っていた。今回の旅の目的は、名主・只野頼吉の祖父の三十三回忌供養である。だが、供養とは一体、誰のためのものなのだろうか。教えでは「御霊(みたま)の安寧を願うもの」とされる。無論、先祖への感謝と追善は欠かせない。
しかし、この里の人々が仏に手を合わせる姿を見ていると、それだけではない気がしてくる。
戦乱の時代、多くの男たちがこの地を去り、帰らぬ人となった。あるいは新たな土地へ定着し、二度と戻らなかった。残された者たちは、枕を高くして眠れる「命の危険のない日常」を手に入れた代わりに、家族離散という喪失を抱えている。
彼らが仏前で祈るとき、その願いは死者へ向けられたものというよりは、「今を生きる自分たちの平安」と「これ以上の別離がないこと」への切実な祈りなのではないか。
死者を弔う形を借りて、生者が自らの心を慰め、明日を生きる力を得ようとしている。供養とは、死者のためならず、生者のための儀式なのかもしれない。
供養の日取りを決めるため、朴念は今川家の菩提寺を訪れた。古びてはいるが、掃除の行き届いた禅寺である。朴念は住職に挨拶し、供養の依頼を伝えると、名主・頼吉から預かった包みを差し出した。
「これは、名主様よりお預かりした供養料と、都からの手土産でございます」
住職は手土産の都の香(こう)は笑顔で受け取ったが、金子(きんす)の包みを見ると、顔を引き締め、そっと押し返した。
「お気持ちはありがたいが、我らは、かつてこの地を治められた今川家の御仏をお守りしているだけ。供養は務めでございますゆえ、過分な金子は頂けませぬ」
「いえ、それでは頼吉様の気持ちが収まりません。まして使いに立った私の顔も立ちませぬ。どうか頼吉様の先祖を思う心をお汲み取りください」
しばらくの押し問答が続いた。この辺りのやり取りは、出発前の老師の予想通りであった。
他の宗派は知らぬが、禅宗の僧侶は「施しは受けぬ」と剛毅(ごうき)に嘯(うそぶ)く者が多い。都の大寺に比べれば、この寺は決して豊かとは言えないが、それでも金など要らぬ。それが禅僧の矜持(きょうじ)だ。だからこそ差し出された金を、喜んで懐にしまうことは出来ないのだ。
欲しい物を目の前にした時、喜んで受け取るなど自らの貧しさを認め、魂を売るだけなのだ。そんな愚かな人の業を戒めるのが禅宗である。
(ウチの老師に比べれば、まだまだご住職は修業も半ばという処か)
別に値踏みしたわけではないが、改めて朴念は老師の顔を思い浮かべた。
(老師ときたら、差し出された金子は大威張りで「少ないのう」などと余計な事まで言ってのけ、躊躇(ためら)わずに懐に収めて頭ひとつ下げない。それでいて「さすが老師様だ」とありがたがられるのだから不思議なもんだ)
些(いささ)か老師を批判するような思いだが、それは老師に対する尊敬と愛着あっての話だ。
(老師は、それを「人徳じゃ」と嘯(うそぶ)いていたが、今ならその正体が少しだけ分かる気がする)
たしかに困って居る者をみれば、余裕のある者ならば善意で金を差し出すかも知れない。それは“善意”であることに間違えない。
だが助けられる側は必ずしもそれを喜ぶというのだろうか? それはまるで隠していた衣の破れを見られたような、惨めさと「恥」を感じるのではないか。
まして寺に身を置く者が、剛腹(ごうふく)に「ありがたい」などと礼を言うならば、自らに違和感さえ覚えかもしれない。なにより禅僧は、「欲」を棄て、浮世の苦しみから逃れようと日々精進しているからだ。だからこそ、金など欲しくはないのだ。
それでも受け取るのは、受け取る事が金子を差し出す者の気持ちを慮(おもんばか)ったうえでのことだ。…と、些か言い訳がましく老師は語っていた。珍しく細かく真意を伝えた所をみると、どうやら誤解されてはいけないと思ったのであろうか。
そして朴念は、額を畳に擦り付けて改めて住職に懇願した。それは頼吉殿の菩提寺の為ではない、頼吉殿と自身の為に受け取って欲しいと懇願した。住職は自分の頑なさを詫びながら、差し出された金子を受け取られた。
ふと朴念は昔の事を思い出した。裕福な商人が寺に多額の寄進をした時の事だ。あの時の老師は「ありがたい」と感謝し、それを受け取りながら遠回しに「ご利益など知らん」と突き放した。
(そうか、だから老師様は……偏屈ながらも民から尊敬される老師という顔と、意地汚く口が悪い乞食坊主の顔を使われているのか……そうか、なるほど……信心の無い者には、意地汚い乞食坊主が似合いということなのだろうな)思わず、老師らしいと吹き出しそうになった。
(……だが待てよ、ウチの老師様が、そこまで達観して“態度を使い分ける”など到底思えんが……)朴念にとって、まだまだ老師の胸中は此の世の真理よりも尚深い深淵にあるらしい。
供養の当日。住職は約束通り、須弥壇(しゅみだん)を立派に整え、近隣の寺からも数人の僧侶を招いてくれた。読経の声が朗々と響き渡る、都でもそうは見かけないほど荘厳な供養となった。
参列した里の老人や女たちは、涙を流しながら手を合わせている。
朴念は、千太が余計な粗相をしでかさぬよう、藤太と藤次の二人に厳重な監視を頼んだ後、自身は僧侶の末席として儀式に参加した。
だが、読経には加わらず、許可を得て下座の隅に座らせてもらった。懐から矢立(やたて)と紙を取り出す。(この空気、この光、そして祈る人々の背中……)朴念の筆が走った。
立ち上る紫煙、揺らめく蝋燭の灯、金色の仏像、そして一心に祈る人々の姿。死者への手向けでありながら、どこか生者の生命力が満ちているこの空間を、朴念は何枚もの下絵に写し取っていった。
それから数日、朴念は毎日寺を訪れ、本堂の片隅で絵を仕上げていった。最初は遠巻きに見ていた住職も、次第に興味を惹かれ、やがて朴念の筆先から見る見るうちに生き生きとした景色が立ち現れる有様に、時を忘れて見入るようになった。
「……ほう。供養の様子を描くとは聞き及んでおりましたが、これほどとは。まるで、読経の声が聞こえてくるようですな」
「ありがとうございます。皆様の祈りが、あまりに美しかったものですから」
一通りの絵が描きあがり、出立(しゅったつ)を翌日に控えた夕暮れ時。朴念は改めて今日までのお礼にと、絵を一枚持参して寺を訪れた。
夕に染まる境内には、勤行を終えた静寂が満ちている。住職は朴念を庫裏(くり)へ招き入れ、茶を点ててくれた。
「朴念殿。明日はもう発たれるとか」
「はい。おかげさまで、良い供養ができました」
茶をすすりながら、二人は僧侶として、そして同じ乱世を生きる者として、静かに語り合う機会を得た。
朴念は、懐から一枚の絵を取り出し、住職の前に差し出した。
「これは……?」
「此度の供養のお礼に、ご住職様に納めさせていただきたく描きました。頼吉殿にお持ちする記録とは別の、私の心覚えのようなものです」
住職は、おずおずとその和紙を受け取り、広げた。次の瞬間、住職の手が止まった。そこに描かれていたのは、立派な仏像でも、厳かな僧侶の列でもなかった。
描かれていたのは、本堂の下座から見た、里の人々の「背中」だった。夫を、息子を、父を失い、あるいは遠く離れ、それでもこの地を守り抜いてきた老人や女たちの、小さく丸まった背中。その背中が、揺らめく線香の煙の向こうで、一心に合掌している。顔は見えない。だが、その背中が語る「耐えてきた歳月」と「祈りの切実さ」が、墨の濃淡だけで痛いほどに表現されていた。
「……なんと」住職の口から、吐息のような声が漏れた。しばしの沈黙の後、住職は目を潤ませて朴念を見た。
「私は……毎日、この者たちの前で経を読んでおりました。説法もしておりました。ですが、彼らの背中がこれほどまでに雄弁に、何かを語っていることに気づきませんでした」住職は指先で、描かれた老婆の背をなぞった。
「言葉は、時に無力です。慰めの言葉をかければかけるほど、彼らの悲しみが深まることもありました。あるいは、言葉は簡単に嘘をつくこともできます。『元気だ』『達者だ』と……」住職は顔を上げ、朴念を真っ直ぐに見つめた。「ですが、この絵には嘘がない。言葉よりも確かな『心』が映っている。……朴念殿、貴殿は仏を描かずして、仏の慈悲を描かれた」
朴念は首を振った。「買い被りです。私はただ、ありのままを写しただけ。この里の皆様の祈りが、あまりに美しく、そして哀しかったからです」
「いいえ。これは貴殿の『眼』と『心』がなければ描けぬものです」
住職は絵を丁寧に畳み、まるで経典のように押し頂いた。そして、ふと安堵したような表情を浮かべた。
「……頼吉殿も、朴念殿の絵をご覧になれば、さぞ安心されるでしょう。いいえ、言葉では伝えきれぬ『故郷の匂い』を感じられるに違いありません」
「故郷の匂い、ですか」
「ええ。離れて暮らす者にとって、一番辛いのは『忘れられること』と『変わってしまうこと』への恐怖です。ですが、貴殿の絵は、この里の空気をそのまま都へ運んでくれる。頼吉殿は、この絵を通じて、数十年ぶりに故郷の土を踏むことができるのです」
絵は、距離を超える。時間を超える。言葉では伝えきれない「温度」や「気配」を封じ込め、離れ離れになった人々の心を繋ぐ架け橋となる。かつて直介と呼ばれた頃、絵は己の欲望を満たす道具だった。橋の下で描いた似顔絵は、日銭を稼ぐ道具だった。
だが今、朴念は知った。絵とは、誰かのために祈り、誰かの心を繋ぐための「法力」にもなり得るのだと。
「……朴念殿。貴殿のような僧に出会えたこと、この寺の誇りといたします」住職が深々と頭を下げた。先日の金子の件で見せた頑なさは消え、そこには一人の人間としての温かい敬意があった。
「よしてください。私はただの、絵描きの小坊主です」朴念もまた、額を畳に擦り付けて返礼した。
帰り道。今川の里は、深い藍色の夕闇に包まれていた。空には一番星が光っている。朴念の足取りは軽かった。懐には、明日持ち帰るべき大切な絵が入っている。それは、単なる供養の記録ではない。都で待つ只野頼吉と、この里を守る人々を繋ぐ、見えない「絆」そのものだった。(これで、役目は果たせる)
朴念は夜空を見上げた。都の老師の顔が浮かんだ気がした。『フン、まだまだじゃな』そんな憎まれ口が聞こえてきそうで、朴念は一人、暗い夜道で声を上げて笑った。
(第二部 完)
