第二章 流転する光、舞う葉 ~不立文字~

「今日からお前は『朴念(ぼくねん)』だ」

山門をくぐったその日、あの乞食坊主――この寺の住職である老師は、直介の髪を剃り落とし、そう吐き捨てた。

「朴念仁(わからずや)の朴念だ。念仏など唱えんでいい。お前はただ働き、ただ食え」

与えられたのは、僧衣ではなく継ぎ接ぎだらけの作務衣。そして、終わりのない雑役だった。

【冬】 都の冬は、底冷え(そこびえ)と言うらしい。その言葉通り、山裾の寺の寒さは、床下から鋭い針で刺されるような痛みを伴っていた。だが、その厳しさと引き換えに、冬の空気は恐ろしいほどに透き通り、張り詰めた静寂を纏(まと)っていた。

ある朝、雪が積もった。朴念は暁闇(ぎょうあん)の中、かじかむ指に息を吹きかけながら、一人黙々と雪かきをしていた。

本堂からは、雲水たちのあげる読経の声が響いてくる。腹の底から絞り出されるような、低く、重厚な音のうねり。本来なら、寒さと労働の辛さに泣き言の一つも漏らすところだ。だが、朴念の耳はその「音」を奇妙な形で捉えていた。

(この声を絵にするなら、どんな色だ……?)

深く沈んだ藍色か、それとも幾重にも塗り重ねた濃墨の灰色か。雪の白さの中に響く黒い音の塊。それを紙の上にどう定着させるか。

そんな益体(やくたい)もない空想(ゆめ)に耽(ふけ)っている間だけは、指先の痛みを忘れることができた。

【春】 雪解けと共に、気配が変わった。ある朝、いつものように薄暗い炊事場で朝餉(あさげ)の支度をしていた時のことだ。

竃(かまど)に薪をくべ、大釜から盛大に湯気が立ち上っている。火加減が肝心だ。朴念は煤(すす)で顔を黒くしながら、必死の形相で火吹き竹を吹いていた。「フゥーッ、フゥーッ!」 肺の中の空気をすべて吐き出し、新鮮な風を送り込む。赤黒い炎がボッと音を立てて勢いづく。

その時だった。ふと足元に、東の小窓から一筋の朝日が射し込んでいるのに気付いた。黄金色の光の帯が煤けた土間に落ちる。朴念は火吹き竹を口にくわえたまま、その光を見つめた。光は止まってはいなかった。じわり、じわり。瞬きをする間にも、光の帯は土間を舐めるように伸びていく。昨日までは届かなかった場所へ。そして明日はまた違う場所へ。

(動いている……)

燃え盛る竃の火、立ち上る湯気、そしてこの光。一時として同じ姿で留まるものはない。万物は流れ、移ろいゆく。朴念はその光景をただ美しいと感じた。

後に僧侶となり、多くの経典に触れた直介は、この時の光景こそが「諸行無常」の真理であったと知ることになる。だが、十三歳の朴念にとって、それは言葉ではなく、網膜に焼き付いた「確かな事実」としてのみ存在した。

【夏】 盆地の底にある都の夏は、まるで地獄の釜の蓋が開いたような暑さだった。まとわりつく湿気と熱気が、容赦なく体力を奪っていく。だが、それ以上に朴念を苦しめたのは「音」だった。

朴念の故郷である坂東(関東)の夏も暑かったが夜になれば涼しい風が吹いた。山の蝉はミンミンあるいはツクツクホウシと鳴き、どこか風情があった。だが、ここの蝉は違う。「クマゼミ」というらしい。シャンシャンシャン……いや、ジュワ、ジュワ、ジュワワワワ……! 油の煮えるようなその鳴き声は、汗の流れる体にべっとりと張り付き、ただでさえ酷い暑さを三倍にも感じさせた。

「うるさい……」 草むしりをしながら、朴念は耳を塞ぎたくなる衝動をこらえた。

悪いことに、この耳鳴りのような鳴き声は耳の奥にこびりつき、夜、布団に潜り込んで目を閉じても、残像のように頭の中を駆け巡るのだ。(故郷の蝉の方が、まだマシだったな……)

ある日、草の根元に蝉の抜け殻を見つけた。その横には、役目を終えて蟻に集かられている蝉の死骸。七日鳴いて、尽きる命。

抜いても抜いても生えてくる雑草と、死んで土に還る蝉。命が湧き、騒ぎ、そして消える。その圧倒的な「循環」の中に、自分もまた一匹の虫のように取り込まれているのだと、朴念は汗を拭いながら感じていた。

【秋】 再び、秋が巡ってきた。都の秋は、紅葉(もみじ)が美しい。ある日、朴念は山裾の集落へ使いに出された。

寺を出ると、山々は燃えるような赤や黄色に染まっている。

(ああ、いい色だ。あの赤は朱に少し藤黄(とうおう)を混ぜれば出るか……?)

絵筆を奪われた朴念にとって、目は筆であり、心は紙だった。美しい景色を心に書き留めようと、朴念は食い入るように紅葉を見つめた。

(いけない、急がねば)

朴念は使いに遅れてはならぬと、懸命に駆け出した――つもりだった。だが、その足は無意識のうちに止まり、また別の木々の彩りに目を奪われる。心の中では疾走していても、体は美の前に縫い留められていたのだ。

寺に戻った頃には、日はとっぷりと暮れていた。「遅い!」 仁王立ちで待ち構えていた老師の雷が落ちた。

「使いに行かせて半日も戻らぬ馬鹿がどこにおる! 貴様、また頭の中で絵を描いておったな!」

「い、いえ。 その、道が混んでおりまして……」

「嘘をつけ! 山道に人などおるか!」

その夜、朴念の前の箱膳には、空っぽの椀だけが置かれていた。腹の虫が鳴くのを聞きながら、朴念は昼間に見た紅葉の赤を思い出し、空腹を紛らわせるしかなかった。

これから冬が来る。あの厳しく辛い冬がまたやってくる。だが、今の朴念に以前のような悲壮感はなかった。腹は減ったが、心には鮮やかな色が満ちていたからだ。

「……悪くない」 朴念の口から、一年ぶりの独り言が漏れた。

痩せた頬を秋風が撫でていく。その顔は、一年前の卑屈な男のそれとは、まるで別人のように穏やかだった。