合掌する背中に宿る嘘なき心。距離と時を超え、故郷を繋ぐ一筋の筆。

一通りの絵が描きあがり、出立(しゅったつ)を翌日に控えた夕暮れ時。朴念は改めて今日までのお礼にと、絵を一枚持参して寺を訪れた。
夕に染まる境内には、勤行を終えた静寂が満ちている。住職は朴念を庫裏(くり)へ招き入れ、茶を点ててくれた。
「朴念殿。明日はもう発たれるとか」
「はい。おかげさまで、良い供養ができました」
茶をすすりながら、二人は僧侶として、そして同じ乱世を生きる者として、静かに語り合う機会を得た。
朴念は、懐から一枚の絵を取り出し、住職の前に差し出した。
「これは……?」
「此度の供養のお礼に、ご住職様に納めさせていただきたく描きました。頼吉殿にお持ちする記録とは別の、私の心覚えのようなものです」
住職は、おずおずとその和紙を受け取り、広げた。次の瞬間、住職の手が止まった。そこに描かれていたのは、立派な仏像でも、厳かな僧侶の列でもなかった。
描かれていたのは、本堂の下座から見た、里の人々の「背中」だった。夫を、息子を、父を失い、あるいは遠く離れ、それでもこの地を守り抜いてきた老人や女たちの、小さく丸まった背中。その背中が、揺らめく線香の煙の向こうで、一心に合掌している。顔は見えない。だが、その背中が語る「耐えてきた歳月」と「祈りの切実さ」が、墨の濃淡だけで痛いほどに表現されていた。
「……なんと」住職の口から、吐息のような声が漏れた。しばしの沈黙の後、住職は目を潤ませて朴念を見た。
「私は……毎日、この者たちの前で経を読んでおりました。説法もしておりました。ですが、彼らの背中がこれほどまでに雄弁に、何かを語っていることに気づきませんでした」住職は指先で、描かれた老婆の背をなぞった。
「言葉は、時に無力です。慰めの言葉をかければかけるほど、彼らの悲しみが深まることもありました。あるいは、言葉は簡単に嘘をつくこともできます。『元気だ』『達者だ』と……」住職は顔を上げ、朴念を真っ直ぐに見つめた。「ですが、この絵には嘘がない。言葉よりも確かな『心』が映っている。……朴念殿、貴殿は仏を描かずして、仏の慈悲を描かれた」
朴念は首を振った。「買い被りです。私はただ、ありのままを写しただけ。この里の皆様の祈りが、あまりに美しく、そして哀しかったからです」
「いいえ。これは貴殿の『眼』と『心』がなければ描けぬものです」
住職は絵を丁寧に畳み、まるで経典のように押し頂いた。そして、ふと安堵したような表情を浮かべた。
「……頼吉殿も、朴念殿の絵をご覧になれば、さぞ安心されるでしょう。いいえ、言葉では伝えきれぬ『故郷の匂い』を感じられるに違いありません」
「故郷の匂い、ですか」
「ええ。離れて暮らす者にとって、一番辛いのは『忘れられること』と『変わってしまうこと』への恐怖です。ですが、貴殿の絵は、この里の空気をそのまま都へ運んでくれる。頼吉殿は、この絵を通じて、数十年ぶりに故郷の土を踏むことができるのです」
絵は、距離を超える。時間を超える。言葉では伝えきれない「温度」や「気配」を封じ込め、離れ離れになった人々の心を繋ぐ架け橋となる。かつて直介と呼ばれた頃、絵は己の欲望を満たす道具だった。橋の下で描いた似顔絵は、日銭を稼ぐ道具だった。
だが今、朴念は知った。絵とは、誰かのために祈り、誰かの心を繋ぐための「法力」にもなり得るのだと。
「……朴念殿。貴殿のような僧に出会えたこと、この寺の誇りといたします」住職が深々と頭を下げた。先日の金子の件で見せた頑なさは消え、そこには一人の人間としての温かい敬意があった。
「よしてください。私はただの、絵描きの小坊主です」朴念もまた、額を畳に擦り付けて返礼した。
帰り道。今川の里は、深い藍色の夕闇に包まれていた。空には一番星が光っている。朴念の足取りは軽かった。懐には、明日持ち帰るべき大切な絵が入っている。それは、単なる供養の記録ではない。都で待つ只野頼吉と、この里を守る人々を繋ぐ、見えない「絆」そのものだった。(これで、役目は果たせる)
朴念は夜空を見上げた。都の老師の顔が浮かんだ気がした。『フン、まだまだじゃな』そんな憎まれ口が聞こえてきそうで、朴念は一人、暗い夜道で声を上げて笑った。
(第二部 完)
